2017年3月2日木曜日

第3回日本翻訳大賞フェアat甲南大学生協書籍部

 甲南大学の生協書籍部が全くもってサイコーだというのはワタシ周りでは定評があるのですが、「拙訳の『あの素晴らしき七年』が第3回日本翻訳大賞の第二次選考作に選ばれたんですよ」とお話ししたところ、こんな素敵なフェアを組んでくださりました。

二次選考対象の15作品全てディスプレイ!





これは嬉しいです。

街の本屋でこれやってくれるとこはなかなかないんじゃないでしょうか?

恥ずかしながらワタシが持っているのは、『すべての見えない光』『屋根裏の仏さま』『アメリカーナ』だけでして、『テラ・ノストラ』や『黒い本』、『ポーランドのボクサー』をはじめとして、読んでないのは全部買いたいのではありますが、買ってしまうと棚が崩れてしまうのでいましばらく待つことにしました。4月になったら買い占めます。

我らが黄色い本だけはたくさんあるので、いくら買っていただいても構わぬよ。



ところで肝心の第3回日本翻訳大賞でありますが、読者の投票上位10作と審査員の推薦5作の計15作が第二次選考に進むのだそうです。そして、選考で残るかどうかよりも(もちろん、翻訳者の実力は抜きにして、本じたいの「強さ」ではこの軽量級の黄色い一冊も、居並ぶへヴィー級たちに負けないと思うので、次に進めたらそれはそれでとても嬉しいだろうと思いますが)この賞が「いいなあ」って思うのは 、読者の推薦文がサイトで読めるようになっていることです。賞を設立してくださった審査員のみなさま、こんな素敵な仕組みをありがとうございます。励みになります。

ワタシの場合、2月上旬、大学の仕事でへとへとのからっからになっていたときに、友人からのお知らせで、けっこうな数推薦されてるよ、っていうのを知らせてもらったのですが、それ読んで、実は泣いちゃったんであります。文字通り。夜のオフィスで無味乾燥な書類を作成する傍ら目を走らせたその推薦のことばの温かさに。40代半ばのオッサンが。あー、嬉しいよー、って。大事にしてくれている読者がこんないるんだ、その一人一人がみんな、この本を勧めたい!って情熱で思いのたけを綴ってくれている。そこには愛があるじゃないか!

翻訳者としてというよりは、推薦してくれたみなさんと同じエトガル・ケレットのファンとして、「そうそう!その気持ちわかるわ」って。この人たちみんなともだちやなあ、って。胸が熱くなったのです。


なので勝手におともだちみたいに推薦文に返信してみます。(※問題がある場合はコメント欄でお伝えいただければ削除します。よろしくおねがいします)

千葉聡さんの「明るい語り口に耳をすませているうちに、急に遠い場所に連れていかれてしまう」という表現、まさしくこの本のターディスっぷりを的確に表現しているなって思いました。

戸田 光司さんの「ケレットがたびたびべそべそ泣くのも好きです。私も泣き虫なので、共感を覚えます」というコメント、気づかずにいましたがワタシが彼に共感するのも、同じべそべそ派だからだって発見しました。べそべそ、いいですよね。

丘本さちをさんの「この枚数でここまで沁みるものが書けるなら長編小説はいらないのではないか?」という疑問、そうなんですよね、なんでこんな短さでこんな濃密な世界ができるのか。ケレットさんならではの魔法です。

かすりさんの「遠い国の悲痛な日常は、私の日常と切り離された別世界の話ではない、と理屈ではなく肌でわかるエッセイでした」の「肌でわかる」っていう表現、いいなあ。

Akeldama1さんの「なにより表紙が派手な黄色で、散らかった部屋でもすぐに見つかる」。間違いないです。「愛すべき黄色本」ですよね。黄色い本に悪い人はいない、です。

小国貴司さんの「シリアスでユーモラスな訳文」という評、とても嬉しかったです。ありがとうございます。

GO-FEETさんの「まるでフィクションのような素晴らしいエッセイ集」という言葉、そうなんですよ、フィクションでもノンフィクションでも、おもしろいものはおもしろい!

金井 真弓さんの「悲しみと背中合わせのユーモア」ってことばはこの本の核心じゃないかと思います。笑いの隣には悲しみがあるし、悲しみの隣には笑いがいるんですよね。

ぱせりさん、「ケレットの根っこ」が見えましたか。こういう人だからこそのあの短編。「イスラエルの宝」であると同時に世界中の本好きの宝でもあります。

@ kaseinojiさん、「孤児のような来歴の本」とは言い得て妙ですね。帰れるおうちはないけれど、世界中で愛されるみなしごでもあります。@kaseinojiさんのブログみたいなみなし親がたくさんできますように。これからも一緒にこの孤児を応援していきましょう!

みなさん、熱い推薦文、ありがとうございます。ケレットさんにも「たくさんの読者が推薦してくれてるよ!」と伝えたところ大変喜んでくれていました。

そしてお知らせ。

かねてから甲南大学にかけあっておりましたケレットさん夫妻招聘のお話、大学からGO!が出ました!

ただいまケレットさんと日程を詰めておりまして、当初の予定だった2018年の4月ではなく、同年の秋になりそうです。ご期待ください!







 

2017年3月1日水曜日

『スモーク』デジタルリマスタ―版 at 元町映画館

 『スモーク』デジタル・リマスター版を鑑賞に元町映画館へ。

 もう20年経ったというのが信じられない。初めて見たのは95年の東京国際映画祭だった。当時院生で人生でもっともオースターに浸りオースターを愛していた幸せな時期であった。オースター読んでオースターについて何か書ければもうそれで幸せっていう日々。そんななかオースターが映画作ったらしいという話に心沸き立ち、楽しみにして見に行った。

 当時の印象は、スリリングな小説作品に比してずいぶん「いい話」だなあってかんじで、こういうハートウォーミングなのが見たいのではないのだけど、とか思っていた。若かったんだと思う。でもやっぱりオースターなので好きで、いつもの逸話(書いた本をタバコにして吸ってしまったバフチンの話、自分より若い父親を発見した息子の話)が出てきたり、親子や孤児、金、といったおなじみのテーマが出てくるのも嬉しかった。

 その後何度も何度も見た映画だけど、久しぶりに見たらまた発見があった。オースターの息子が出てるのを知った。タバコ屋で万引きする子の役。

 最初はなんだかセリフで説明しすぎている気がしたけど、すぐに気にならなくなっていく。作家が書いたというのがよくわかる映画。で、プロットにはいろんな要素が詰め込まれた上にうまく繋げられていて、やはり脚本がいいのだと思う。オーギーの定点観測の写真は被写体ではなく時間を写し取り、彼が「俺の街角」を慈しむ行為でもある。これだけでも豊かなエピソードなのに、それがポールの妻の話につながり、最後のクリスマスストーリーにもつながって、見事に回収されていく。

 特に古い感じはしなかったけど、やはりケータイはないのでみんな前見て歩いているし、カフェでラップトップ開いている人もいないので飯食ったりコーヒー飲んだり、自然に手持無沙汰である。そうだ、ケータイやPCは手持無沙汰を消してしまったな。本来ニンゲンは手持無沙汰な生き物なのに。生きている多くの時間、ニンゲンの手は仕事なしのままぶらぶらそわそわしてるもんだった。

 そんな仕事にあぶれた手が何をしていたかというとタバコである。箱から出したり指に挟んだり火をつけたりもみ消したり。ニンゲンは喫煙をやめて以来手持無沙汰に耐えかねてスマホを発明した、という仮説を主張したい。

 まあみんなタバコばっかり吸ってる話なのでこちらも当然吸いたくなる。帰りに大きなタバコショップに寄ってシュンメルペニンクありますか?なんて聞いてみる。もう禁煙して20年にもなるのに。置いてなかった。たぶん日本には入っていないって。そういや20年前も探したんだよな。2000年にオースターをブルッククリンに訪ねたとき、彼はやはりシュンメルペニンクを(少なくとも細身のシガリロを)吸ってた。そのころもう自分はタバコやめてたんだろうな。

 やはりよくできた映画だと思う。最後のモノクロ再現でのトム・ウェイツは何度見てもグッとくる。

 ファンが多いのか、平日昼間なのにお客さんいっぱいだった。隔日でデジタルとフィルムを交互に上映してるというので、今度はフィルム版を見に行くことにした。

 元町映画館は初めて行ったけど、想像していたより広くて綺麗でいい劇場。甲南の人科の卒業性の宮本さんってのが一生懸命でナイスである。

2017年2月19日日曜日

第24回泉州国際マラソン

 当たったんですけどね。

 風邪なのかアレルギーなのかわからんけど、咳と痰が止まらないので見送ることに。火曜にスピード練習で久々に走ったあと、夜なって全身冷え切って「ああ風邪引いたな」と思ったのだが、そのあと悪化せず、ただ喉の違和感と咳が止まらない。なんかのウイルスかな?2015年の秋にアップルマラソンを出走見送りした時に似てるような。たぶん季節性のなんか飛んでるんちゃうかな。

1週間後に姫路城マラソンが控えているのでそちらに備える。治るかわからんし、またしても練習不足で臨む辛いレースとなるな。ああ。

2017年1月29日日曜日

たつの市梅と潮の香マラソン

たつの市梅と潮の香マラソン。ハーフ。去年は出遅れて10kしか出れなかったけど今年はハーフ、間に合った。
5時起床。昨日のライブでそれなりに飲んだので体は重いが、なんかいいことありそうな予感を胸に起床。おにぎり2個と羊羹あんぱん。アトム氏にごはん。

6時前に出るが、いつまでも学習しないことに、早朝はバスがないのをいつも忘れる。JR六甲道まで15分ほど走る。

会場にははやく着いたので入念にストレッチ。9時40分スタート。走り始めてすぐしんどい。そうであった、ここのコースは緩やかなアップダウンが続くのでシンドイのだ。6キロほどで折り返してまたアップダウン。むむむ。辛い。

しかし10キロすぎは平坦で、暑くもなく寒くもなく、体は重いけど(体重が増えて物理的にも重い)、ハーフやしいけるっしょ、って感じでキロ5分15くらいで頑張る。

1時間51分。♫拝啓ジョンくん、がんばれた方だ、お前の時間楽しめた方だ、サンキューソーマッチ、オッケーオーライ♫



豚汁いただいて、裏の新舞子ホテルでお風呂&メシ。カキフライ定食。お風呂もレストランも景色が絶景。海見ながら風呂入って牡蠣食って、ハッピー。

2017年1月6日金曜日

エトガル・ケレット 「ヒエトカゲ」

今日から本屋に並んだ『すばる』2月号で、エトガル・ケレットの短編「ヒエトカゲ」の翻訳と解説を書いてます。トランプ政権3期目の悪夢を予見した怪作です。本屋で見かけたら手に取っていただければ幸い。
 
ポケモン関係は世代的にまったく経験がなかったので、院生の青木さんやFさんに相談に乗ってもらっていろいろ助言をもらいました。感謝。 



個人的に感慨深いのは(小説と翻訳の違いや分量の違いも大きくあるし、比べるのはおこがましいのではありますが)辻仁成さんと同じ号に載っているということで、というのもワタシは高校生時分彼のバンドECHOESの大ファンで、CDもVHSも全部持ってたし、(田舎なので年に一回くらいしか来なかったけど)ライブも行ってたし、今でも実家の部屋には彼のポスターが貼ってあるからであります。

ケルアックを知ったのも、On the Road と歌う"Jack"という曲がきっかけでした。

小銭を切らしてるきみも
タバコを切らしてる僕も
身近な愛をなくしている
僕らはこの街の失業者さ
持ち合わせのない愛を探し求めて
明日この道の上で
愛を切らしてるきみに

「持ち合わせのない愛」とか「愛を切らしてる」って表現にグッときたんだよなあ。今思えば、おまえはなんの愛がそんなに欲しかったのだ、と自分に問いたい気もしますが(笑)。さみしかったのでしょうか。

思えばはじめて『すばる』を買ったのも、辻さんが『ピアニッシモ』ですばる文学賞を受賞した時でした。文芸誌というものをはじめて買った瞬間です。

なので、その『すばる』と辻さんとこうしてご一緒させてもらうというのはなかなかに感慨深い。

高校生の自分にタイムマシンで会いに行って「おまえは30年後に『すばる』の表紙に辻仁成と一緒に名前が載るぞ」と言ってやりたい。さぞかしびっくりするのではないかと思います。

しかし、彼は心を閉ざして「はぁ?うっせ」とか言い返す、あるいは臆病を隠した睨みで応えるでしょうから、会いに行っても楽しくないだろうなあとも思います。

タイムマシン、なくてもいいや。

2017年1月1日日曜日

橙書店 in 熊本

 年の瀬なのでこの一年を総括してみるならば、この数年頑張ってきたエトガル・ケレットさんの日本への紹介が『あの素晴らしき七年』の出版という形で春に結実し、その勢いでケレットさん言うところの artistic adventure に巻き込んでもらった感がある一年であった。

 もともとケレットさんのイベントで知り合った福永さんとの交流も深まったし、年末の11月12月には学会関係で喋り仕事が3つもあり、そういうのが得意な他の方ないざ知らず、慎重で余裕を持ちたがる私にとってはかつてないハードなスケジュール、それでもやってみたのはひとえにケレットさんの紹介者としての責任感ゆえであり、ケレットさん関連の依頼は全部受けると決めていた。結果、やったらなんとかなるってのも発見だし、拙くとも喋ればそこから反応があって自分が考えるためのヒントも生まれるなあと実感した。

比較文学会
CISMOR

   なかでも今年一番嬉しかった出来事は、先日学会で九州は福岡に行ったときのこと。

 九州アメリカ文学会でケレットさんのことを踏まえた発表をした際に、会場に来てくださっていた方から、「熊本の橙書店で薦められて『あの素晴らしき七年』買いました」と声をかけられて、へー、オススメしてくれるなんてありがたい話だなあ、お客さんにオススメする本屋ってことは多分こだわりのお店なんだろうなあ、って思って、でもその日はそれ以上考えることもなかった。
 翌日、熊本在住の友人に会うために新幹線で向かうと、友人のSさん、「行ったことないんですけど熊本には橙書店っていう有名な本屋があるんですよ。行ってみます?」と言う。あれ、昨日聞いた本屋かな?これは奇遇。行きましょ行きましょってことになって、お城と馬刺しの後に探しに行く。Sさんがちゃんと地図を用意してくれていたのにも感謝である。

 行ってみると、神戸の海岸通りのビルジングに似たおもむきの、古い建物の2階。文芸書中心のラインナップ、カウンターとテーブルのカフェスペースもある。入った途端、「ああ、この店好きやわ」って思った。豊かな時間が流れる空間。中に入ると『あの素晴らしき七年』を面陳してくださっていて「うわー推してくれてる〜」と喜んでいると、店主の方が「秋元さんですよね?」と聞いて来る。ん?知り合いだった?と不思議に思っていると、なんと、前日のシンポの情報を得てお客さんにも勧めてくれていて、それでそこにたまたまいたお客さんの松嶋さんが聞きに来てくれていたというではないか。
一階の入り口


嬉しい


 Mさんは学会会員でもなければ大学関係でもない。年の頃は私に近い感じの男性で、お医者さんだそう。ご自身で小説も書いていらっしゃる。ケレットさんの本を気に入ってくれていて(店主の田尻さんのオススメがきっかけでしょうか)それで前日わざわざ熊本から聞きに来てくれていたのだ。
 これは本当に嬉しい出来事で、学会の外の方が話を聞きに来てくれて、しかもケレットさんの本を気に入って来てくれていたってのが、もうたまらなく嬉しい。
 ちなみに松嶋さんはすでにデビューされていてPrada ジャーナル(あのプラダ!)で入賞されていてウェブで作品が読める。http://www.prada.com/journal2016/index-ja.html#/winners/ 影同士が対話し始める、とても面白い作品。
 店主の田尻さんは『あの素晴らしき七年』を気に入っていろんな方に勧めてくださっているそうで、そのおかげでこのお店ではクレストの中でも本書が一番の売り上げ。お店にはいろんな作家が来られるそうで、そういう方々にも勧めてくださっている。ありがたい限り。ああ、大事にしてくれる、愛してくれる読者に会えて嬉しいな〜、頑張って出してよかったなあってしみじみ思う瞬間だった。
 この日は出勤してなかったけれど、ここにはしらたまくんという看板ねこがいるそうで、村上春樹さんも会いに来ていて、『ラオスにいったい何があるというんですか?』にそのことが載っている。なんと村上さん、この店で朗読会もしたそうで、そんなこと簡単にはしない人なはずなので聞いてみると、20年ぶりだったとのこと。
 翻訳者は出しゃばるべきではないって思うのだけれども、やっぱり自分にとってとても大事な作家で、なんとか日本の読者に届けたい、絶対好きな人たくさんいるはず、って思って始めたことだから、それがこうして、大事にしてくれる読者にちゃんと発見されているのを知ったのには、これまでしてきた仕事とは次元の違う感動を覚えた。だってそこにはそれぞれの「愛」があるじゃないの。そういうつながりに自分が加われたことが嬉しいし、ケレットさんとのartistic adventureはまだまだ続いていくはずと確信。
 来年も楽しい仕事がいっぱいできたらいいな。ちょっとでもこの日本の本を読む人たちに、いいものを届けて、世の中がちょっとでも豊かになったらいいな、と思う。

 来年もよろしくお願いします。

 
 

2016年12月27日火曜日

木村友佑 『野良ビトたちの燃え上がる肖像』

  「社会派」というひとことで片づけては失礼だろうが、今の日本を地べたの視点からとらえる作家である。『イサの氾濫』では震災のあともわだかまる東北の人の心を描いた。今作は貧困と格差の問題である。

 ゲーテッド・コミュニティのタワーマンションに住む富裕層と、彼らから「野良ビト」と害獣扱いされる川べりの浮浪者たち。格差が可視化された社会は未来ではなく、もうすでにある現実である。労働者が切られて職を失い浮浪者が増える。しかし「スポーツ祭典」の狂騒を背景に人々は「好景気」の虚像に踊り、現実を見ようとしない。不景気を口にするものは罰せられる。持つ者と持たざる者の2極化が進み、持たざるホームレスたちの間でも強者が弱者を食い物にする。


    3人称で語られてきたホームレスたちの物語が、終盤で視点が変わる。マイノリティである外国籍のイスラム教徒(でも日本で育った日本人である)をさらなる弱者としていじめるホームレスたちを前に、このホームレス社会のリーダーとなった木下は、「あんたらに食わせるメシはない」と言い、追放を宣言する。そこで視点が入れ替わる。

 「そう木下は言ったのだった。ぼくの経験を投影した登場人物である木下は――つまり、ぼくは。あまりに腹が立ったから思わずでた言葉だったけれど、その後味の悪さはいつまでも胸に、舌に残った」

 この視点の変化には賛否両論あるだろうと思う。円満な物語世界をなぜ中断するのか、と訝る向きもあるだろう。

 しかし、私は、こここそこの作品の肝だと思っている。

 木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、差別を批判し社会の歪みを糾す一見「正義」に思える自分の中にも、同じような差別意識、権力をふるいたいという欲望があることに気が付く。

 世の中間違っている。それを批判することはたやすい。円満な破たんのない物語世界を描くことで、社会批判をし、悦に入ることだってできる。しかしそれはともすれば、自分を特権的な正義の位置において、社会を「向こう側」へ切り離してしまう行為でもある。でも、その社会の歪みを自分の問題として引き受け、差別する人と同じ心性が自分の中にもあり、ややもすると自分もそうなるかもしれないという内省がなくては問題が解決することはないだろう。

 木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)は、おいおい、自分にもあるじゃないか、そういうとこが、と気づく。そして、先ほどの引用部分は、あたかも、『野良ビトたちの燃え上がる肖像』というテクストじたいを書く作者木村友佑自身の独白のようにも読めるではないか。もちろん読み進めれば、それを語っているのは木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)なのであり、作者が小説の約束を破って中に登場したわけではない。しかし、引用部分を読む読者にはこの「ぼく」が誰なのか、にわかにはわからない。一瞬作者自身ではないかと思う。

 そしてそれこそが私たち読者の意識を揺らがせる。木下(に自分を仮託して物語を綴る作中のフィクショナルな書き手)同様に、そしておそらくは作者木村同様に、私たち読者も、自分を見つめ直さなければならない。ホームレスかわいそうだ、それをいじめるこいつらひでえな、と「正義」の側に立つだけではダメなのだ。それが自分とさほど違わない人々なのだという共感に至らなくては意味がないのだ。そして、この語りの変化は見事にそれを実現していると思う。

 世の中が不寛容に傾いている。遠くの誰かを自分事のように考えることが難しくなっている。自分とはかかわりのない他者だと思うからこそ人は無関心でいられる。一見それは弱者に目を向けない強者の論理のようにも思えるけれど、強者ばかりではない。弱者だってそうなのだ。「こいつらひでえな」で済ませないために、「自分もひでえのかも」「自分の中にもひでえやつになる可能性はあるじゃないか」に至るために、この小説は読まれるべきだと思う。