2015年5月28日木曜日

福永信 『星座から見た地球』

 福永信は誰も書かない小説を書く。小説という形式をつねにどこか外してみせようとするその姿勢を「実験的」だとか「ポストモダン」と呼ぶこともできよう。でも、その言葉じゃ足りない。

 横書き日本語小説でありながら、1ページ目の1行目が同ページ2行目ではなく2ページの1行目、3ページの1行目へとリンゴの皮むき状に横の帯が下降していくという、独自の読書体験を強いる『アクロバット前夜』は彼の形式的実験(遊び?)の最たるものだろうし、その後の『コップとコッペパンとペン』の、コップとコッペパンとペンという、シニフィアンの方は音と字面では一部を共有してなんとなくの連続性を想起させながら、シニフィエの方はまるで共通性を持たないという言葉遊びは、直線的な語りを拒否し、常に細部の不要な情報(とおふざけ)へと湾曲していく彼の小説作法への的確な自己言及であろう。

          



 なのに福永信の小説は、「ポストモダン小説」という語から発想されるある種の知的エリート主義や高踏的な冷たさを感じさせない。それが不思議だった。彼の小説は思わず笑ってしまうような余分な記述に満ちている、というかむしろ周縁にあるそちらこそが本体ではないかとさえ思え、そういう「笑い」も、高踏的ではない感じの一因ではあるが、そればかりではない。

 その理由が、わかった。『星座から見た地球』を読んでわかった。




 その理由とは、きっと、「愛」だ。

 それは恋人への愛とか、親子の愛とか、友達への愛とか、そういう個人の関係に限定された自分だけの利己的な愛ではない。もっと大きな愛、そう、ちょうど「星座から」地球を見守るような、大きなスケールで小さな世界をまるごとくるむような「愛」である。意外かもしれない。しかし『星座から見た地球』を読めばわかる。

 AとBとCとDが出てくる。最初に出てきたこの4人はみな子どものように思える。4人の断片的なお話がひとまとまりで続き、次にはまたA, B, C, Dの順番で断片的な物語が語られ、それが延々続いていく。そのうち4人は出会うのではないかと思うが、彼らが出会うことはない。4人それぞれの物語じたいは断片化されて離れていても、それぞれAだけとかBだけで読めばひとつのお話になっているのかと予想するが、そうもならない。Aの最初の話とAのふたつめの話はつながらない。つながらないばかりか、次に出てきたAは最初のAとは違う子どものようでもある。Cは途中で死んでしまうが、そのあとにまたCの話が出てくるし、子どもたちの中にはまだ生まれていない者さえいる。だから読者は、この物語は時間軸を行き来している、あるいは、記号が指す人物が一人の人間ではないかもしれない、という可能性に行きつく。さらにはどうもアルファベットで呼ばれる人物(?)がチョークだったり、ネコだったりするものも含まれているようだ。読み手はそういった不確定性を抱えたまま読み進む。
 しかしその不確定性が決して読むことの邪魔をしない。直線的な物語は追えないけれども、各断片のなかで描かれるものの多くは、おそらく読者みんながもっている子供時代の記憶である。日暮れ時の野球、両親に隠れて忍び込んだ押入れの中、シャツを脱ごうとして陥った万歳状態、引越ししたあとの家に戻ってみて感じた静けさ、遊びで戦っている相手のホントの正体を「地球外生命体」だと空想すること。エピソードのひとつひとつが土ぼこりのついた膝小僧のような幼少期の匂いを発してやまず、そのすべてが愛おしい。

 生まれる前の子、途中で死んだ子、初潮を迎えた子、恋をした子、いろんな子どもたちの断片の果て、最後に語られる最後の「D」はネコである。ひっかいてしまって、でも「あやまることができない」ネコは「ちょっとふりかえるだけだ」。ネコは悪いとは思っても謝罪するすべを知らない。そして彼は人間の妹より自分が早く死ぬことを知っている。だからといって悲しむわけでもなく、ただその事実を事実として受け入れている。

 Dは妹より早く死ぬことを承知していた。妹だけではなく彼女の両親よりも早くこの世を去るだろうというのがわかっていた。おじいちゃんとはいっしょくらい かもしれない。Dはなんとも思わない。むろん感想をもとめられたところで、何も答えないだろう。いつの世も、Dとおなじ名前をどこかで聞くことができた。 それはDのことではないのだが、すべてが足跡のように、消えてしまうわけではないのだ。

 そうだ。AとBとCとDはみなぼくらだ。かつてのぼくらであり、これからのぼくらでもある。ぼくらはみな生きて死んでいく。でもDと同じ名前がどこかにあるように、ぼくらの名残もきっといつもどこかにある。いや、ぼくらはみなつねにAでありBでありCでありDなのだ。過去においても未来においても。
 この最後の部分を読んだとき、腹がぼわぁぁぁと熱くなった。胸が熱くなったのではない。それとは違う感覚だ。腹が熱くなった。最後の最後にとてつもない真理を見せられた気がした。

 子どものころ、死んだらどうなるのか考えたときのことを思い出す。世の中はとても不公平で、貧しい人もいれば豊かな人もいるし、容姿のいい人、スポーツのできる人、頭のいい人もいれば、そうじゃない人もいる。病気の人、体が欠けている人、早くに亡くなる人もいる。これはフェアじゃない。そう思ったとき、これは全部自分ではないかと思った。死んだら今のこの自分を終えて、次はあのプロ野球選手になり、その次はもしかしたらあの体の不自由な人になるのかもしれないし、あの死んじゃった赤ちゃんになるのかもしれない。でもそれは順番で結局すべての人をぼくはやるのだ。聖徳太子もガンジーもいとこのともちゃんも小山先生もみんないつかぼくがやる。だから逆に言うならこの世にいる人もいた人もこれからいる人もみな結局はぼくだってことになる。それならフェアだ。今はこの自分の番なのでこの自分でいるしかない。ただそれだけのことだ。

 そんなふうに世界を理解しようとしたことを思い出した。ぼくらはみなAでありBであり、いつかはCになり、かつてはDだった。ネコのDだったときもあるじゃないか。そうして見たときにこの世界というのはずいぶん愛おしいものに見えはしないか。

 ちょうどこの本を読む前にユクスキュルの『生物から見た世界』を読んでいた。生物にはそれぞれの環世界があって、同じ現実を前にしても知覚している世界は生物ごとにずいぶんと違う。『星座から見た地球』は偶然かユクスキュルと似たタイトルで、星座から見た環世界を描いているのかもしれない。星座の知覚にしてみれば地球は遠くのひとつの点にすぎなくて、そこでは無数のAやBやCやDが小さな物語をほんの一瞬だけ紡いでは消えていくのだ。その星座の視点から地球を丸ごと包む愛、それこそが福永信の愛なのだと思う。

 本作は福永信のほかの作品とはまた別の意味で「誰も書かない小説」だ。この小さな本のすべてが中心であり、いかなる細部も見逃してはいけない。ゆっくりと味わって何度も読むべき小説だ。こんな小説読んだことがない。そしてこんな豊かな読書経験もはじめてだ。

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